Deep River
DEEP RIVER - 2002.6.19/1位/360.5万枚
【収録曲】
01.SAKURAドロップス
02.traveling
03.幸せになろう
04.Deep River
05.Letters
06.プレイ・ボール
07.東京NIGHTS
08.A.S.A.P.
09.嘘みたいな I Love You
10.FINAL DISTANCE
11.Bridge (Interlude)
12.光

米国産の和製R&Bディーバとして大ブレイクしてしまった宇多田ヒカル。出荷枚数900万枚超という空前絶後のセールスを記録したデビューアルバム「First Love」の勢いは衰えることなく、ミリオンヒットシングルをどっさり詰め込んだセカンドアルバム「Distance」も発売初週で300万枚を売り上げるなど(―しかし一週間のうちに全国300万人が同じCDを買っているって、冷静に考えたら気持ち悪い話ですよね)、彼女の存在と楽曲は単なる一過性のムーヴメント、ではない"新時代の歌姫"という称号と共に、彼女の手元を離れて祭り上げられるようになっていく。
しかし「First Love」「Distance」に収められた楽曲が、彼女の鋭い感性や内に秘めた思いの丈の全て表現していたかというと、残念ながら決してそうではなかった、というのが個人的な印象。まだこの初期の2枚のアルバムは、よく分からぬうちに神輿に乗せられてしまった、ミュージシャンになる気など全くなかったごくフツーの少女・宇多田光が、どうにかしてエンターテイナーたろうと周囲の顔色を窺いながら、世間のイメージする"宇多田ヒカル"的なものから逸脱しない範疇で作り上げた、という印象が拭えない。
後に多くのフォロワーを生み出すことになったR&Bサウンド+ウィスパーボイス、という初期の楽曲における作風にしても、サウンドメイクはアレンジャーやディレクターによるところが大きく、セルフプロデュースに切り替わって以降はポップス路線に転換したというあたり、彼女自身の意向がどれだけ介入していたのかというとかなり微妙。ボーカルに関しても、当時のブログで「歌う方法なんて考え出したら、勉強してるみたいで嫌」などと書いていたり、後に「私が作った曲を歌ってくれる人がいないから、自分で歌っているだけ」「本当は作り手に徹していたい、表に出て歌いたくない」というように語っているあたり、そもそも歌うことがあまり得意でなかった彼女がどうにかしてボーカリストたろうとした結果、という感じでそう大した必然はなかった気がする。

そんな感じで自身のシンガーソングライターとしての音楽性や歩むべき方向を見定められないまま、ただなんとなく流されるように歌い紡いでいたのが「First Love」「Distance」の頃のヒッキーだったということなのだが、これに明確な転機が訪れたのはシングル「光」であった。自身のファーストネームを冠したタイトルに、我々リスナーには顔の見えない誰かに向けてただひたすら「もっと話そうよ」「私のことだけを見ていてよ」と語りかける詩作。 「Automatic」や「First Love」に見られる少女趣味的で普遍性を秘めた世界でもなく、「Addicted To You」「Wait & See」のようにアメリカナイズドされた価値観を開示するわけでもなく、「Can You Keep A Secret?」「traveling」のように周囲が自分に求める"宇多田ヒカル"像を忠実に描き出すわけでもない。これまでの彼女とは何もかもが別次元で構築された楽曲だった。
そしてこの"誰か"とは紀里谷和明氏のことであり、全体に漂う言いようのない幸福感、その背後に押し迫る悲哀や寂寥感は、全て間近に控えた結婚という一大イベントに抱く希望や不安がそのまま詩作と歌声に表れていた、というのは今更言うまでもない。つまりはここで彼女は、その時々で感じたこと、考えていること、影響を受けた物事、そして自身の内面の不条理や苦い経験を、そのまま作品に反映して昇華するという、彼女なりの表現手法をようやく見出すことに成功する。無理にエンターテイナーになる必要もないし、大衆や周囲のスタッフの顔色を窺う必要もない。私は私なりに私が思ったこと、感じたことを、そのまま楽譜に起こして歌うだけだ、という今日に至るまでの一貫した創作姿勢は、この「光」とそれが収録された今作「DEEP RIVER」から本格的に始まった、と言っていい。

アルバムのタイトルにして表題曲「Deep River」は、遠藤周作の小説「深い河(ディープ・リバー)」にインスピレーションを得た楽曲である、という。ちなみに元を辿ればこの「深い河」という小説は、クリスチャンであった作者の遠藤周作が、同名の黒人霊歌に影響されて書き上げたものである。
キリストが説く愛とは何か、そもそも神とはどのような存在か。小説自体はそうした全人類の中において極めて異端な無宗教の人間が数多い日本人、キリスト教が理解できない日本人に対する一種の布教というか、普通に物語として読んでいくと凡人には理解できない、あまりに突飛な展開や発想が次々と飛び出すもので難解な部分が多いのだが、誰しもが経験し得る喪失感、諦念、孤独といった諸々が丁寧に描写されている、という点では十分に読み応えのある名作といって差し支えない。
全体の詩作は、主にこの小説の最終章「彼は醜く威厳もなく」を下敷きにしたのでは、と思われる。

"「馬鹿ね、本当に馬鹿ね、あなたは」と運ばれていく担架を見送りながら美津子は叫んだ。「本当に馬鹿よ。あんな玉ねぎ(=神様のこと)のために一生を棒にふって。あなたが玉ねぎの真似をしたからって、この憎しみとエゴイズムしかない世のなかが変わる筈はないじゃないの。あなたはあっちこっちで追い出され、揚げ句の果て、首を折って、死人の担架で運ばれて。あなたは結局は無力だったじゃないの」"

かつて神父を志してフランスやインドの修道院に入ったもののやっていけず、現在はガンジス河を終焉の地としてインド中から集まってきた貧民たちを葬る仕事をしていた大津という男に対して、彼を追いかけインドまでやってきた主人公のひとり成瀬美津子が、ヒンズー教徒の暴動に巻き込まれて瀕死の重体となり担架で運ばれていく大津の姿を見て言い放った言葉。これはそのまま、旧約聖書の一文であり、そこから引用した章題にリンクしている。

"彼は醜く、威厳もなく みじめで、みすぼらしい
人は彼を蔑み、見捨てた
忌み嫌われる者のように、彼は手で顔を覆って人々に侮られる
まことに彼は我々の病を負い
我々の悲しみを担った"

そこでこの曲を改めて聴き直すとまあ、ヒカルちゃん分かりやすいほどに影響されまくりである。

"いくつもの河を流れ わけも聞かずに 与えられた名前とともに 全てを受け入れるなんてしなくていいよ 私たちの痛みが今 飛び立った"
"どこでも受け入れられようと しないでいいよ 自分らしさというツルギを皆授かった"

しかしこうやって書き出すとホント、そのまんまって感じ。この小説のどういった部分に彼女が呼応したのか分からない―が、神も仏もありはしないこの世の中で、ただガンジスだけがあらゆる人種のあらゆる罪を許し、飲み込んで流し去ってくれる―という傍から見れば何の救いにも解決にもなっていない、だけど当人たちにはそれが何よりの幸福である、という思想に「いつか結ばれるより今夜一時間会いたい」と歌った後の「Be My Last」の一節が重なる―っていうのは考え過ぎ、ですかね。いずれにせよ夢は部屋の壁一面を本棚にすること、と言い切った文学少女らしい、ある意味で宇多田ヒカルの素の一面が窺い知れる楽曲であるといえる。

本作はこの「Deep River」を起点として、彼女の奥底に眠っていた感性の小宇宙を旅するように、ある面ではこれまで以上に開放的であり、そしてある面ではこれまで以上に内省的で薄暗い、独創的かつ鮮やかで美しい、儚く物哀しい世界が展開されている。
幼少の頃から決して届くことのなかった母の後姿に、今だ手を伸ばし続けているような「Letters」は以降「Be My Last」~「海路」~「嵐の女神」~「桜流し」と続くトラウマソングの原点であるし、「FINAL DISTANCE」も一応は附属池田小事件の被害者に宛てた曲という体裁ではあったが、実際は彼女の心中に渦巻く闇を生々しく開示しているような曲であるし、一方で先述の「光」やタイトルもそのまま直球の「幸せになろう」や「嘘みたいな I Love You」などは、結婚を目前に控えた花嫁のマリッジブルーって感じの、切なくも幸福に満ちた世界観に仕上がっている。
詩作だけでなく楽曲面でも「プレイ・ボール」や「A.S.A.P.」など、これまでにないひねくれた遊び心が新境地であり、今作以降彼女のミュージシャンとしての才気がほとばしるような、簡単に言えば売れ線を放棄したような楽曲が多くなってくる。もちろんそれらはこういう曲の方が受けるだろう、売れるだろう、という商業音楽にありがちな気負いがなく、あくまで私のやりたい音楽をやる、という彼女なりの音楽性や創作姿勢が前面に出てきた結果であり、元々ミュージシャンという職業に理想を抱いていなかった彼女が、改めてひとりのミュージシャンとして活動していこうとなったとき、このような作風に行きつくのは至極当然だったと言える。

私が紡ぎたい物語を、吐き出したい心の闇を、伝えたい思いの丈を、率直に音に乗せて歌う。それが理解できない、気に食わない人は聴かなくていい。ただそんな私の音楽でもいいという人だけが、聴いてくれればいい。今作から浮き彫りとなったそのような創作姿勢は、結果的に以降「ULTRA BLUE」やシングルコレクション2の新曲パートのような、どす黒い感情を生々しく身を削るようにして歌う宇多田ヒカルの姿に繋がっていく。ある意味ではここでようやくシンガーソングライター・宇多田ヒカルが誕生したと言っていいわけで、そんな記念碑的作品、それがこの「DEEP RIVER」というアルバムであった。

≪10/10点≫

M1~M12.【作詞/作曲:宇多田ヒカル/編曲:宇多田ヒカル・河野圭】