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河合その子
・1965年6月20日、愛知県知多郡横須賀町(現:東海市)出身
・レーベル:CBSソニー
・活動期間:1985年~1990年(~1994年、2000年~2001年、2010年)

”日本の芸能界における「アイドル」とは、成長過程をファンと共有し、存在そのものの魅力で活躍する人物を指す~(中略)~外見が最も重要視されるモデルとは異なり、容姿が圧倒的である必要はなく親しみやすい存在であることが多い”——というのは、Wikipediaの「アイドル」項からの引用である。だとするならば「アイドル」とは、最初から洗練されていてはいけないし、芸達者でもいけない。もちろん、身体的にも成熟しきった大人であってもいけない、容姿も良すぎてはいけない。「アイドル」という存在をそのように定義すると、河合その子という女性は「アイドル」から最もかけ離れた立場にあったといえる。

一般的にはアイドル文化の革命(破壊)陣こと「おニャン子クラブ」の初期メンバー、というイメージが強いであろう河合その子。とは言え、他のおニャン子メンバーたちが後に批判されたように「何の芸も持たず、ただ成り行きで芸能活動していたガラクタアイドル」のひとりであったかと言えば、それは少し、というかかなり事実と異なる。

おニャン子クラブの一員としてデビューする1985年より遡ること二年前の1983年、石川ひとみを輩出した東京音楽学院名古屋校に通っていた彼女は、講師に勧められるまま参加したCBSソニー主催のティーンズ・ポップ・コンテスト(楽器演奏を必須条件としたオーディションであり、後の川島だりあと宮原学もエントリーしていた。86年の第二回優勝者は谷村有美ということからも分かるように、アイドル・モデル系のオーディションではなかった。)において準優勝している。この時すでに18歳、もうアイドルとして売り出すには厳しい年齢であり、その後はレコード会社8社対抗運動会(——という、現在の「オールスター感謝祭」の前身のような番組が当時毎年企画・放送されていた。)にCBSソニー代表で出場したり、業界向けのプロモーションビデオに出演するなどしていたが、いずれもソロシンガー・アイドルとしてのデビューには至らなかった。
とは言え彼女自身が芸能界入りをそこまで熱望していたわけではなかったようで、高校卒業後はコンピューター関係の専門学校に進学、1985年3月のおニャン子プロジェクト発足の時点ですでに地元の一般企業に事務員として4月から就職が決まっていた、という。

時を同じくして、85年4月からフジテレビの新番組として放送される「夕やけニャンニャン」のレギュラー出演者および同番組発のアイドルグループとして結成される「おニャン子クラブ」の創設メンバーを探していた企画・構成担当の秋元康が、CBSソニーのスタッフに「可愛くて歌の上手い子が欲しい」と打診。その条件にぴったりと当てはまったのが彼女であり(——当初スタッフには「参加するだけでいい」と言われたので、まさかそのまま正式にアイドルデビューし東京から帰れなくなるとは全く想像だにしていなかったため、内定が決まっていた会社には母親が菓子折りを持って謝りに行った、というエピソードも残っている。)その後の「おニャン子クラブ会員番号12番」としての活躍ぶりは、広く一般に知られている通りである。



今日、河合その子という歌手に関する一般層の認識は、やはり「おニャン子クラブのメンバー」それ以上でも以下でもないといったところであると思う。事実、彼女はおニャン子クラブの一員として売り出されたことをきっかけに、デビューシングル「涙の茉莉花LOVE」がオリコン最高1位(——当時女性歌手のデビューシングルがいきなりオリコン最高1位を記録したのは史上初であった)、3枚目のシングル「青いスタスィオン」は86年の年間シングルチャート10位、というアイドル歌手としてはこれ以上ないほどの人気と知名度を得られたわけで、これが仮におニャン子クラブとは全く関係のない、ソロのアイドル歌手としてのデビューだったら、今日までその存在を記憶されるほどの人気を得られていたかどうか分からない。

——しかし、その代償はあまりに大きかった。
元からアイドルではなくプロ志向の歌手・ミュージシャン気質であった彼女は、86年3月のおニャン子クラブ卒業と同時に物凄い勢いで本格派ミュージシャンへの道を邁進することになる。
おニャン子時代からソロ4枚目「再会のラビリンス」までは、昨今のアイドル声優のごとく「意図的に」甘ったるく媚びた歌声を作ってしゃくり上げながら歌う、所謂「ぶりっ子歌唱」でわざと下手に聞こえるようなボーカルスタイルをあっさりと封印、ソロ5枚目の「悲しい夜を止めて」ではそれまでとは全くの別人としか思えないほどに迫力と艶のある低音でパワフルに歌い上げるボーカルアプローチを披露。それまでのぶりっ子アイドルの仮面を剥ぎ取って、実は凄まじい歌唱力と音楽的素養を持つ本格志向の歌手、という本性を見せつけた。
おニャン子クラブの一員として装い素人である必要の無くなった彼女はそれ以降、もはやアイドルという範疇を完全に逸脱した本格的かつ完成度の高いアーティティックな作品を矢継ぎ早に発表。89年のアルバム「Dancin' In The Light」では米国でのトレーニングで更にボーカリストとしての実力を磨き、次のアルバム「Replica」ではついに収録曲全てが彼女の自作曲となる。

凄まじい歌唱力で、それに見合うクオリティの高い楽曲を歌い、作曲の才能もあり、極めつけに美しいビジュアルの持ち主(——現代基準で見てもかなりの美人だと思う)。河合その子という歌手のステータスは、まさにチートスペックと呼ぶに相応しい、80年代に登場した幾多のアイドルたちの中でも指折りの逸材であると言える。これで売れないわけがない。しかし、実際のセールスや人気はおニャン子クラブ卒業直前の「青いスタスィオン」をピークに、急転直下で右肩下がりの一途を辿ることとなる。理由はひとつしかなく、それは彼女が「あの」おニャン子クラブのメンバーだったから、に他ならない。


——「おニャン子クラブ会員番号12番・河合その子」としてデビューし知名度を得た彼女は、素晴らしい才能と音楽的素養を存分に発揮して活動していくうちに、「シンガーソングライター・河合その子」をファンも世間も必要としていない、という事実に直面してしまった。彼女は、歌も芝居も満足に出来ない、ただひたすら周囲の大人たちの操り人形として可愛く笑っているだけのアイドル、ではなくなった途端に多くのファンから愛想を尽かされ、しかしミュージシャンとして本来訴求していくべきその他大勢の一般層などには「所詮はおニャン子上がり」と門前払いを食らい、もはやまともな商業的音楽活動は不可能となってしまう。
結果、先述した90年発表のアルバム「Replica」を最後に活動休止、94年に自身のアイドル時代の楽曲の大半を手掛けた後藤次利と結婚、それに際してのコンサート・イベント等は一切なく、まさに「自然消滅」といった感じにそのまま芸能界を引退した。



改めてリアルタイムではなく後追いで作品を聴いた自分としては、彼女と周囲のスタッフは少し焦り過ぎたのではないか、と感じる。デビューシングル「涙の茉莉花LOVE」と1stアルバム「SONOKO」から順を追って引退までに発表された作品群を聴いていくと、僅か5年という短い活動期間であったのにも関わらず、その間にリリースされた作品群は他の歌手にとっての10年、もしくはそれ以上に相当するくらいの濃密さが感じられる。他の歌手に例えるなら、中森明菜が「スローモーション」でデビューしてから本格的にセルフプロデュースを開始する「DESIRE」に至るまでの約3年半に渡る過程を、彼女は僅か1年程で突き進んでしまった、といった感じ。これにはデビュー時点で20歳、という年齢も関係していたようであり(——同級生の中森明菜や小泉今日子などは16、17から活動し始めていてすでに業界の大先輩、他方同じ85年デビューの他のアイドル歌手は皆16~18と年下で、当然おニャン子クラブ内でも最年長であり心境としてはかなり複雑であったと後年語っている)仕方のない部分もあるが、もう少しどうにかならなかったのかな、と思ってしまう。

もし彼女が80年代後半のバブル全盛期にアイドルではなく、最初から実力派の美人ミュージシャンとしてデビューしていたなら、恐らくかなりの大物になっていただろう。後期の自作時代の楽曲群は、バブル期に隆盛する「ガールズポップ」の世界とは若干趣の異なる、老若男女聴く者を選ばないスタンダードナンバーが多く、当の本人が極上の美人ということもあり、いっそビーイングあたりに移籍して再デビューすれば良かったのでは、と思えなくもない(——CBSソニーからビーイングへの移籍は元GRASS VALLEYの出口雅之の例があったんだし、有り得ない話ではなかったと思う……が、そこまでして続けるほどの胆力は無かったというのが実情か)。

——結論から言えば「秋元康が悪いよ」ということなのだがしかし。
当の彼女自身が「おニャン子クラブ」という集団そのものや同志の少女たちをどのように感じていたのか、それがまるで分からない。自身のソロ活動の足枷として迷惑に感じていたのか、デビューを諦めかけていた自分に手を差し伸べてくれたからと(主に秋元康に対して)感謝していたのか。
おニャン子クラブ解散後、引退直前に出演したラジオ番組で「グループが無くなったので、やっと肩の荷が下りた」「離れてみて初めて(おニャン子という集団を)怖いと思った」などと話し、引退後も定期的に企画される同窓会・再結成といったイベントには今日まで一切参加せず、仲の良かった城之内早苗以外のメンバーとの連絡は一切断っているという一方、2015年に発売されたおニャン子クラブ30周年記念BOXセットには、発売に際してメッセージを寄稿している。

また、彼女はこのようなことを活動末期に語っている。

私個人でも、今考えると"おかしいくらいにアイドルしてたよね"という感じになってしまいます。デビュー当時からずっとお付き合いのあるライターの人は"昔はいつ会っても初対面みたいな感じだったよね。変われば変わるもんよね"——と、私のことを言って笑いますが、結局そういう風にならざるをえなかったところがあるんです~(中略)~キティちゃんのカンカンを持たなくちゃいけないとか、ちょっと普通では考えられない20歳かな、と~(中略)~私は時々"そういう世界に疲れたの?"と聞かれるんですが、疲れたんじゃなくて出来なかったんです」(ソニー出版『TYO』Vol.34にて)



彼女の歌手・ミュージシャンとしての真価は、自身の意向によりメディア露出を避けて徹底的に音楽活動に専念した後期の作品群(アルバム「Dancin'~」「Replica」など)にあると思う。それらのレビューは下記を参照していただくとして、ここではそうした悲運の歌手・河合その子の成長過程(というより、変貌過程?)ともいえるシングル曲をざっとレビューしていく。これら楽曲は2002年に発売された「ゴールデン★ベスト」にまとめられており、同作品には後期の自作時代の楽曲も合わせて収録されているので、機会があれば是非手に取って頂きたい。

アルバムレビュー
Rouge et Bleu ('87)
Dancin' In The Light ('89)
Replica ('90)



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SPOON 【HQCD】
SPOON - 1998.6.17/17位/2.2万枚
【収録曲】
01.ユア バースデイ
02.雨の日は人魚
03.楽園の女神
04.今夜、流れ星
05.帰省 ~Never Forget~
06.祝福
07.雪の花 ~White X'mas~
08.嵐の中で
09.幻惑
10.BLOWING FROM THE SUN
11.花曇り

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FIXER -WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING-
FIXER -WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING- - 2016.2.24/32位/0.4万枚
【収録曲】
01.ひらり -SAKURA-
02.FIXER -WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING- (Single Version)
03.ひらり -SAKURA- (Instrumental)
04.FIXER -WHILE THE WOMEN ARE SLEEPING- (Single Version Instrumental)

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